子供の頃、タモと虫かごを持ってよく昆虫採集をしていた。
この昆虫採集という遊びは、実は大人になってからとても役に立っているのではないかということを、茂木さんのコスタリカの美しい写真を見ていてふと思った。
昆虫採集で行われることを思い出してみると・・・
- 最初のうちは虫を見つけては捕まえる(行動は能動的でも判断は受動的)
- 何かおもしろい虫を見つける/捕まえる(好奇心→動機の生成)
- 捕まえた虫が何かを人に聞いたり図鑑で調べたりして知る(分析)
- 捕まえた虫を標本にして並べる→種類毎に分けて並べる(分類・知識の構造化)
- 他の違った虫を見てみたくなる→図鑑などで○○という虫がいることを知る(好奇心→動機の生成)
- ○○はどこへ行けば見つけられるかを調べ、捕まえることを計画する(企画・戦略・仮説)
- ○○を探す(検索・戦術)
- 見つけて捕まえる(検索結果・戦術の仮説検証)→○○だった/○○によく似た○△だった(戦略の仮説検証→満足感)
といった具合に、ビジネスシーンで必要になるスキル、例えばWebや書籍など雑多な情報の中から必要な情報を見つけたりするような一連のスキルがきれいに並んでいるのは、単なる偶然ではないような気がする。昆虫採集に限ったことではないかもしれないけれど。
養老孟司氏や茂木健一郎氏など、現代の知の最前線を走っている方々も、子供の頃からよく昆虫採集をしていたことを様々な所で語っている。養老孟司氏に至っては今でもライフワークとしてる。
本当に虫が好きだというのもあるだろうけど、そのおかげで子供の頃から知らず知らずのうちに、検索したり知識を構造化・抽象化する能力が鍛えられているということも、バックグラウンドとしてあるのではないだろうか。
今、動物や昆虫が見たいと思えば、動物園や博物館に行けば簡単にものすごい種類を見られる。しかも予め丁寧に分類されて、あとはそれを見るだけになっている。それ自体は「図鑑」の延長と考えれば特に不思議なことではないけれど、ここで「動物や昆虫」を「情報」に置き換えると、動物園は自分で何もしなくても「加工済みの情報」を提供してくれるテレビや新聞、雑誌などのマス系メディアと同じようなものとも言えるのではないだろうか。
そう考えた時、「動物園でしか動物や昆虫を見たことがない人」と「テレビや新聞などでしか情報を得たことがない人」が重なって見えてくる。そうした人々がWebの雑多な情報の世界に放り込まれた時、どうやって知りたい情報を見つければよいか、わからなくてもなんら不思議ではない気がする。
大人になった今からでも、自然の中でそうした経験をすることは、とても有意義なことだと思う。虫は苦手というのなら、バードウォッチングなどでもいいかもしれない。人間の手で作られたものではないものの知識を構造化するというスキルは、未知の問題に直面したときに、その局面を打開するための抽象化されたヒントを与えてくれるのではないだろうか。
子供は、遊びを通して将来必要になる様々なことを学ぶというのは、疑う余地のない事実だと思う。どんな遊びが出来るかは環境によるだろうけれど、どんな環境を与えられるかは、運以外にも、親が子供の頃からそうした遊びを経験して知識を抽象化・構造化する力を身につけて、子供に何が必要かがわかっているかどうか、によるところもあるんじゃないかと思う。
子供は、よく遊びよく遊べ(笑)