前回のエントリー「「何が起きるか」は予測できなくても、「何が起きうるか」は予測できる」で、
この「何が起きうるか」を予測できるかどうかは、対象についてどれだけ本質的・客観的に理解しているかによる所が大きいと思う。
と書いたものの、これは演繹的推論を前提としたもので、他にもう一つ、経験に基づく帰納的推論があるのを忘れていた。
過去に似たようなことが経験されているような事象の場合は帰納的推論でも充分かもしれないが、過去に似たような経験もなく、誰も経験したことがないような事柄については、演繹的推論(仮説思考)をするしかない。分からないことがあるとすぐ「先生に聞く」「エライ人に聞く」「長老に聞く」といったことが好きな人は、この演繹的推論を怠って思考停止状態になっているという可能性はないだろうか?
何でも「まずやってみる」ことをよしとする人がいるが、「やってみる」ためには多かれ少なかれ演繹的推論(仮説)が必要だし、利害関係者がいる場合は最低限のリスク評価も必要だ。演繹による仮説があれば実際の結果からの帰納によって仮説の検証ができるため次の手が打ちやすいし、「最悪どうなるか」くらいは予測できるので、その中で「やってみよう」ということになる。いわゆる仮説検証プロセスだ。しかし、そうしたことなしに「やってみる」場合、その結果をどうやって評価するのだろう?それによって被害や損害が生じたりした場合どうしようというのだろう。教育の一環として保護された範囲内でやるなら構わないが、実社会に出てからそうした行動をとるのは迷惑になる場合もある。
利害が自分の中で完結しているようなことは、どんどん「やってみる」べきだろうけど、少なくとも他人を巻き込む可能性があるなら、何でもかんでも「やってみる」のは横暴と思われる可能性もある。
いや、何も考えずに「やってみる」人は、「他人を巻き込む可能性」があることも予測していないかも・・・