ここ数年、書店に行くと「論理的思考」に関する本をよく見かける。よい傾向だと思う。個人的には、論理的に考えることで、余計なことに割く時間を減らせるので、その分もっと「わくわくすること」に時間が使えるようになる。と思っている。
ただ、「論理的」をめぐる文脈の中では、時々すっきりしない議論に遭遇することがある。
例えば、「数学は論理的な思考を鍛えるのに重要だ」という話を聞くことがある。しかし、数学の得意な人であっても一般社会でその論理的思考力を発揮してないことがある。
また、コンピュータ言語でのプログラミングは極めて論理的な思考を必要とする行為であり、多くのプログラマーとは論理的な会話ができるのは確かだが、どんな分野の話でも論理的な会話ができるわけではなかったりもする。
この違いは何か?
それは「どの範囲において」論理的に考えるか?の違いではないだろうか。
一つの仮説。
高校までの数学もプログラミングも、あらかじめ「ルール」が決まっていて、その枠組みの範囲内で考える形になっているので、自ら大きな枠組みを定義する必要が少ない。
しかし、一般社会で論理的に考えようとする場合、まず前提としての枠組み(課題、問題)を定義することから始めないといけないことが多いのではないだろうか。それを意識しているか意識していないかに関わらず。
この枠組みの定義が曖昧だったり、狭かったりすると、その後のプロセスがどんなに論理的であっても、思うような結果が得られなくなってしまうのは当然のことであろう。
逆に言えば、直面する課題に対する枠組みをうまく定義さえできれば、論理的思考力が存分に発揮できる可能性があることになる。
そう考えると、論理的思考力は「筋力」のようなものととらえるとよいのかもしれない。
体を動かしたり運動をするにも、最低限の筋力はまず必要だ。しかし、筋力を鍛えただけでどんなスポーツでもできるというわけではない。スポーツは筋力だけでするものではないし、ある瞬間に体をどう動かすかの方が重要だ。
鍛え上げられたマッチョマンと、鍛え抜かれたアスリートを想像すればわかるように、マッチョなボディービルダーは狭い世界での自己満足に近いのに対し、スポーツ選手は多くの人々に感動をもたらす働きをする。この違いは大きい。
基礎体力として筋力(論理的思考力)を身につけるのは重要だけれど、それだけで問題を解決できるわけではないということは、こうしてスポーツに例えるとわかりやすそうだ。
思考においても「思考のボディービルダー」ではなく「思考のアスリート」を目指せ、ということであろうか。