連日ニュースや新聞を賑わせている「特定秘密保護法」ですが、相変わらずTwitter上などでは「なんでも反対体質」の人達の作ったギャグのような漫画*が流れているようで、相方が呆れ顔で見せてくれます。(自分のTLにはそんなものは流れてこないのですが)
*:どうやら日本共産党が作った漫画のようです→ 共産党が書いた「秘密保護法の漫画」に他する反応 - Togetterまとめ
そんな中で、石破氏のブログでの表現が槍玉に挙げられているようです。 Google で検索してみたら、次のような記事を見つけました。どうせまた…と思いながら読んでみたら思ったとおり。
問題とされた石破氏のブログでの発言
- 社説:秘密保護法案参院審議を問う 石破発言はなぜ問題か- 毎日新聞(2013年12月03日)
自民党の石破茂幹事長が、特定秘密保護法案に反対する市民団体のデモ活動について、自身のブログで「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」と批判した。 石破氏は2日付で、テロの文言を撤回したうえで、おわびを掲載した。合法的なデモ活動をテロになぞらえて批判したのは、国民を代表する国会議員として極めて不適切だ。
(中略)
石破氏は、2日付ブログでテロと例えた部分を撤回し、「本来あるべき民主主義の手法とは異なるように思います」と改めた。
だが、この訂正にも賛成できない。石破氏の言う本来あるべき民主主義とは何か。
記事で引用された文面は「その本質において」と書かれているように正確に読めば問題視すべきものでもないように思えます。
ソースは次の通り。
- 沖縄など: 石破茂(いしばしげる)ブログ (2013年11月29日)
今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術は
テロ行為とその本質においてあまり変わらない本来あるべき民主主義の手法とは異なるように*1 思います。
- お詫びと訂正: 石破茂(いしばしげる)ブログ (2013年12月 2日)
「一般市民に畏怖の念を与えるような手法」に民主主義とは相容れないテロとの共通性を感じて、「テロと本質的に変わらない」と記しましたが、この部分を撤回し、「本来あるべき民主主義の手法とは異なるように思います」と改めます。
石破氏はテロ行為そのものに「例えて」いるのではなく「その本質」との共通点を指摘しているに過ぎません。
ここで議題に挙げるべきは「テロ行為の本質とはなにか?」であって、「具体的なテロ行為と比較すること」ではないでしょう。
おそらく毎日新聞の記者やこの発言に反発する人達は、文章の読解力不足か、認知バイアスがかかってミスリードしたのでしょう。
毎日新聞の社説では、さらに「民主主義への理解を著しく欠く」として民主主義とはどうあるべきかということを書いていますが、これがまた新聞社としてはあまりにお粗末な「民主主義」の認識で萎えます。駆け出しの若い記者が書いたのかもしれません。
他にも、各方面で失言として追及しようと論理の跳躍運動が相次いでいるようですが、その一例については、図解のプロフェッショナル開米氏が解説されていました。
政治家の「いつもの」失言パターン
今回の事象を客観的に見ると、いつもマスコミが追及したがる「政治家の失言」のパターンによく似ています。 発言した本人は、ある程度抽象化(=本質化)した事柄を表現するのを、抽象された本質ではなく、そのままでは大衆が理解できないと思うのか、通例マスコミは非難しやすく不正確に具体化したものに置き換えてしまいます。
報道する側がそれを意図的に行っているのか、本当に無意識に行っているのかはわかりませんが、過去の政治家の失言を思い返してみると、「本質」や「抽象化」した表現が意図通りに伝わらなかったり、例える具体例を誤って発言の意図と異なった解釈がされてしまったものも多いように思います。
「本質=抽象化したもの」が理解されにくい
自己言及的になりますが、本質的な問題は「本質」とはなにか?が理解されていないということに尽きるのではないでしょうか。
具体的な事柄をそぎ落とし、普遍的な「象」を「抽出」、すなわち「抽象化」して辿り着くのが「本質」です。しかし「抽象化」して「本質」を抜き出す思考は、ある程度当人自身が思考を重ねなければなかなか身につきません。また、そうした教育も積極的に行われてはいません。
工学博士で作家の森博嗣氏はその著書で
「残酷な言い方になるし、身も蓋もないことを書かなければならないが、抽象的思考を身につける方法というものは、具体的にはない。こうすれば間違いなくできるようになる、という方法は存在しない。したがって、教えることなんてできない、と僕は現在考えている。」
『[asin:4106105101:title]』(P.98)
と言っているくらいです。
理解しようという努力をせずに、流れてくる情報を鵜呑みにしてそのまま垂れ流すのは、ほとんど頭を使わないので誰でもできます。違いや差異を指摘することもあまり頭を使わないので子供でも誰でもできます。
しかし、物事の共通点を見い出したり本質を見抜くことは、とても頭を使う作業です。合議制が基本となる「民主主義/民主制」の社会の中では、建設的な議論を行うためには同じ土俵で同じ「像」を見なければ議論が成り立ちません。「反○○」と言ってばかりの人々がどんなに大きな声を出しても、具体的なものを情緒的に見てばかりいるだけでは、議論の相手にもされないでしょう。
参加者の前提知識や前提条件の揃っていない会議ほど非生産的なものはありません。
一人でも多くの人が「本質的な議論」に参加することによって「民主主義/民主制」が本来の姿に近づくと考えています。
「抽象化」や「本質」思考についてオススメしたい1冊
[asin:4106105101:detail] 先の文中でも紹介した本ですが、作者の原題は『抽象思考の庭』だそうです。「抽象」という言葉の誤解を恐れてか編集者がタイトルを変えたようですが、抽象思考についてとても丁寧にわかりやすく書かれた良著だと思います。