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思索と探索のクロッキー帳。オーディオや音楽の話題、レビューなども。

夢を持たない生き方 〜「可能性」を追求する〜

いつ頃からか、少なくとも高校生の頃には「将来の夢」というものを持たなくなっていた。その代わりに、常に「可能性」を追求するようになった。そしてその後の進路は、やはり可能性の広い方広い方へ向かっていった。
当時はおそらく、やりたいことがいろいろある中で、「夢」という形で1つに絞りたくなかったのだろう。ある意味欲張りだ。しかし、世間では夢を持つのが当たり前かのような風潮。「あなたの夢は何ですか?」と聞かれると答えに窮してしまう。
人は一体何のために夢を持つのか?夢がないと本当に向かうべき方向が定まらないのだろうか?ここでふと、前回のエントリーの内容が思い出された。

ある条件下で予め設定した一定の状態に達したとき「完成」と呼ばれる。しかし、「完成する」ということ自体が相対的な概念なので、前提となる条件が変わればその状態は「完成」ではなくなってしまう。
静的な「完成」から動的な「システム」の世界へ - white croquis

「夢」が実現したとき、それはもう夢ではなくなってしまう。あるいは、「夢」としていたものが環境側の制約などでなくなってしまうこともある(例えば目標としていたポジションがなくなってしまうなど)。つまり「夢」とは静的な世界(保証された未来のある世界)に支えられた相対的な概念にすぎないということではないだろうか。

これに対し「可能性」という概念は、常にどんな状況であろうとなくなることがない。どんな瞬間を切り出しても次の瞬間や未来への「可能性」が存在する。可能性は「それがあると思うかどうか」によって決まる概念と言ってもいいのかもしれない。想像力・妄想力がたくましければたくましいほど様々な可能性を考えつくだろう。さらに別の言い方をすれば、可能性を追求するということは、環境などのシステム(系)がダイナミックに変化するのが前提で、適応制御で最適解を目指すということかもしれない。
そういえば、少し前のエントリーでこんなことを書いた。

「可能性」には仮説のように具体的なものもあれば、漠然としたビジョンのような抽象的なものもある。「可能性」がある限り、人は何かをやり続けることが出来るし、それをやる意義を感じられるのだと思う。
将来の「可能性」のために今の時間を使う - white croquis

「夢」を持つこと自体は何ら問題ない。しかし、日々ダイナミックに変化する環境下では、静的な「夢」はいつかあてにならなくなる可能性もある。「夢」を持つのはよいとして、その「夢」の価値は一体何によって担保されているのか?については意識しておいたほうがいいのではないだろうか。この点を考慮することで「夢」は「可能性」としての側面を併せ持つことができるかもしれない。この夢と可能性の関係については、また別の機会に探ってみたい。



「夢はあきらめてもいい。でも可能性はあきらめるな。」

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