読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

white croquis

日々の思索のためのクロッキー帳。オーディオやオススメなども。

夢と生活と可能性

f:id:align_centre:20140310124304j:plain

棚橋さんの「毎日の生活に密着した夢の実現: DESIGN IT! w/LOVE」を読んで、以前次のようなことを書いたのを思い出した。

日々ダイナミックに変化する環境下では、静的な「夢」はいつかあてにならなくなる可能性もある。「夢」を持つのはよいとして、その「夢」の価値は一体何によって担保されているのか?については意識しておいたほうがいいのではないだろうか。この点を考慮することで「夢」は「可能性」としての側面を併せ持つことができるかもしれない。
夢を持たない生き方 〜「可能性」を追求する〜 - Fluffy white croquis

「夢」という概念の位置する範囲は、漠然としたものだったりとても具体的であったりと、人や夢ごとに一定ではない。しかし「夢」には「可能性」があると思うからこそ目指すべき夢として成り立つのではないだろうか? 「可能性」の見出せない、もしくは見出せなかった「夢」は本当に「夢」で終わってしまうかもしれない。

「夢」という言葉からは、何かキラキラとした漠然としたものをイメージしがちだけれど、それが実現できたとき次に何をしたい?という問いには答えづらいのではないだろうかと思う。そこでまた次の夢を考えるのだろうか?
しかしこれを「可能性」という言葉に置き換えると、常に先を見て途切れることなく永遠にそこに向かい続けられそうな気がする。

「あなたの夢は何ですか?」→「あなたは何に可能性を感じますか?」

夢は反証できないけれど、可能性は反証できる。むしろ「反証可能性」があるからこそ実現の可能性を期待できると言った方がよいのかもしれない。「夢」について語り合うと、取り留めがなくなりやすいのは、「夢」が一概には反証できない概念だからなんじゃないだろうか。

先の棚橋さんのブログエントリーでは、『カムイ伝講義』(田中優子 著)で紹介されている江戸時代の農民の夢を、次のように対比している。

でも、それ以上に感じるのは、江戸期の農民たちの夢と僕らの時代の夢との大きな隔たりです。
僕らの時代が追いかけているものというのは、上記の引用でいえば「遠い漠然とした理想や夢や名誉心」だったりするのではないかと感じるのです。
(中略)
それがいまはどうなんでしょう? 「自分が何のために生きているのか、わからなく」なっている人と、『カムイ伝』の正助のように、毎日の生活に密着した夢の実現するため、自分自身と周囲の人々すべてのために行動している人、どっちの割合が高いのでしょうか?
毎日の生活に密着した夢の実現: DESIGN IT! w/LOVE

この「生活に密着した夢」こそ、日々の可能性を求める生き方なのではないかとも思う。「夢を持たない生き方 〜「可能性」を追求する〜 - Fluffy white croquis」で書いたことは、考え方としてはこの「生活に密着した夢」にかなり近い。

何か「夢」というものを追い求めなければいけないような強迫観念にかられて、生きる目的を探さなければいけないと思いこんでしまう状態は、人間が生物ではなくモノとおなじような立場になってしまったかのような気さえする。完全に自律的な思考する人工知能が生まれたら、いずれ同じことを考えるのではないだろうか? SFで描かれる自律型ロボットの苦悩はそうしたものが多いような気がする。ヒトがモノ化している?

ちょうど日を同じくして読んだ「ジェームズ・ヤング著「アイデアのつくり方」を再読する(3) : 文化力で発想しよう!」で触れられている「生活知識」と「専門知識」の間にあるものと、なんとなく通ずるものがあるような気がしてならない。