white croquis

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思考の絶対的基準点

以前、「全ては相対的に - Fluffy white croquis」というエントリーで、最後にこんな事を書いた。

絶対的な概念を認めたら負けかなと思っている。「生」と「死」を除いて。

これは客観的な思考のために「生死」を唯一絶対的なものとして、それ以外は全て相対的にとらえることを目論んだものだ。

上のエントリーや別のエントリー「「科学的」であること - Fluffy white croquis」でも触れたように、科学的、客観的なモノの考え方において、相対的にとらえて定義するということが欠かせない。
相対化するということは、常に何かに「対して」比較して表すということになる。例えば「AはBより大きい」というとき、BがなければAが「大きい」ということを表せないし、「大きい」とはどういう概念であるかも表せない。このとき、Bは「それを相対的に論じる上での」絶対的な基準と仮定していることになろうか。

ここで「それ」の範囲をどんどん広げていき、「絶対的な基準」は最後にどこに行き着くかを考える。人間の思考の中で考える限り、最終的にそれは「生死」に行き着くのではないだろうか。哲学的な認識論・存在論の議論にもつながってしまいそうだが、客観性・普遍性をもった議論において、人間が思考することを根底で支える「生死」だけが唯一絶対的なものとして扱えるのではないだろうか。絶対的な基準は「絶対的」であるため、ただ1つしかありえない。

少し視点を変えてみよう。絶対的な基準点を「生死」以外に求めるとどうなるか。日常生活上の概念や思想、信仰などの中に「絶対的なもの」を想定すると、それが絶対的な基準点になるため、それを基準にそれ以外のものを相対的に捉えることになりそうだ。
絶対的な基準点以外の相対的に捉えられた概念は全て「手段」にもなりうる。もちろんこの場合「生死」も例外ではなくなる。死を厭わない原理主義的な思想や「死後の世界」を想定する思想などはそれに近い状態なのではないだろうか。

つまり、思想や信念を貫くためだったり、不条理な境遇を脱するために「死」を手段として選べるのは、思考の絶対的基準点を「生死」以外に置いたために、「生死」を相対化(価値化)して定義できることになってしまったからなのではないだろうか。

先にも断ったように、これは「人間の思考」においてのみ成り立つ考え方だ。
生物学を学んだ方なら知っている思うが、人間を初めとする地球上の多くの生物では、細胞の染色体の末端にある「テロメア」と呼ばれる部分によって細胞分裂の回数が制限されている。そのおかげで老化も起きるが、物理的に死が保証されることとなっている。(この分裂回数制限がなくなって際限なく分裂し続ける不老不死の細胞は「ガン細胞」とも呼ばれる。)

そう考えると、人間は確実に保証された「死」という概念を認識することによって「思考の絶対的基準点」を獲得したからこそ、これだけ自由に客観的・論理的に思考する能力をもつことになった、と考えることもできるのではないだろうか。

例えば自律的に思考する人工知能が誕生したとき、その思考の絶対的基準点は一体何になるのだろうか? 思考の絶対的基準点を持たずして人間と同じように自由に客観的に考えることが出来るのだろうか?

今日はひとまずここまで。