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white croquis

日々の思索のためのクロッキー帳。オーディオやオススメなども。

「やってみる」ことは自分の外にあるものを求めること?

前回のエントリー「経験至上主義は思考停止状態? - Fluffy white croquis」に関連して、同僚と話をしていた時、「まずやってみる」ということは自分の外に何かを求めているということになるんじゃないだろうか、とふと思った。まず自分が行動して環境や相手に影響を与えることで環境・相手側からのフィードバックを得て、それを元に次の判断をするといったように。自分の中から生み出されるものより外から得られるものの方が価値が高いと考える状態。「よい/わるい」は別として。

これは、暗闇でおそるおそる手を伸ばして、手に何か触れるかどうか?触れたものは何か?から判断する、いわゆる「手探り」の状態に近いかもしれない。確かにこの状態ではまず手を伸ばさないことには、何もわからない場合もあるだろう。しかし、もし暗闇の中に毒蛇がひしめきあっているとしたら・・・どうするだろうか? そう考えると、暗闇で安心して手を伸ばすためには安全がある程度保証されている(またはそう見なせる)という条件が必要かもしれない。毒蛇に噛まれてでもそこから得るものに価値がある場合もあるかもしれないが。(この例えは極端なものとして、状況によって命に関わるものとそうでないものとでは分けて考えた方がよいかもしれない)

で、もし実際に暗闇の洞窟に放り出されたとしたらどうするか? 手探りはするかもしれないが、手だけでなく音や匂いや温度などにも意識を向け、五感をフルに使って総合的に判断するのではないだろうか。音や匂いや温度、空気の流れだけでも分かることは多いし、そうした受動的に得られた情報からもそこがどういう場所であるかの仮説を立てることができる。そうした仮説に基づいて、例えば「たぶんここに水があるんじゃないか」と手を伸ばして水に触れるかどうかを確かめるとどうか。そうした場合、仮説なしに手当たり次第に手を何度も伸ばしてようやく水に触れるのとでは、水に触れるまでのスピードや水に触れるということの意義が大きく違ってくるんじゃないだろうか。

「まず行動を起こす――これがなぜ大切かというと、経験が絶対に論理を超えているからなんです。論理で予想できるようなことはわざわざ経験する必要がないですから。何の脈絡もなく入ってくるからこそ、経験というものには価値があるわけで、僕はそれを、ITを使ってうまくやるというのが今後のITの重要なテーマだと思っているんです。」
茂木健一郎

少なくとも「ある目的」がある時は仮説思考は強力だ。かといって、実際に手を伸ばさないと気づかないような偶然性があるのも事実。ある現象を観測したとき、それが「偶然」なのか「当然」なのかわからなくなってしまわないように、予想できることは予想できるようにしておいた方がいいと思う。